
本日は少しばかり語ります。 元来、語るのは嫌いではないのですが文字に起こすのが苦手なので、言わんとすることが伝わらないであろうことを前提にお聞きいただければと思います。 尚、背景画像が邪魔して読みにくいと思いますがご了承下さい。 江國香織著「きらきらひかる」、ご存知の方もおそらく沢山いらっしゃるでしょう。 私がこの作品を読んだのは、私が結婚する前後あたりのことなのでもう随分前のことになるのですが、以降、当時から長い時間を経た今も尚、こんなにも強烈な感性を持ってして表現し得た言葉には出会えていないと言い切れるセンテンスがあります。 「水を抱く」 本編においてこの言葉が用いられた具体的背景はあえてここでは申し上げませんが、読んだ当初はストーリー有りきでのみ、このセンテンスを咀嚼し、ただただその表現力に感服しておりました。 ありきたりで陳腐な言い方ですが「無上の切なさ」だと。 両の腕で包み込もうとも、逃げるわけでもなく消えるわけでもなく、かと言って所有したという確固たる満足もなく、なんという消化不良な思い。 そして時間(経験)を重ねるごとに、いつの日かこのセンテンスが本から飛び出し、ときに私自身に覆い被さり、認めたくないがばかりに払拭すればするほど胸を抉られるような思いに駆られることに出遭うようになりました。 プライド、比較、競争、圧迫 etc 他人に触れ、話し、物を読み、考え、それで人は「理性」を身につけていくのでしょうが、幸か不幸かそれに伴って上記に示す副産物らが、生き物としてこの世に堕ちてきた以上所持を許されている「本能」の上にのしかかり、選択に迫られるたびに本当の自分と偽りの自分とを天秤にかけ、俗にいう「常識(世論の平均値)」を基準にそのときの自分のあるべき姿を選ぶ、そして残るは消化不良な思い―――。 私の頭の中の状況をかなり端折って綴っていますので、何が言いたいのか全く伝わっていないでしょう。 もう少しお付き合い下さい。 濁りのない目で世界を見ていた頃は、きっと誰しも「水を抱く」思いなどしなかっただろうと、一方で無垢であるが故、残酷なことも自覚のないところで沢山してきて人を傷つけていたんだろうなと思うのですが、この年にもなって恥ずかしいことではありますが、したいこととすべきことのジレンマに駆られると私は、何故かこの「水を抱く」というセンテンスを思い出してしまいます。 そしてこれからも、ときにこの「水を抱く」感覚に苛まれながら、昼を夜を日々を重ねるのかと想像すると、立っている足元に突如灰色の沼が現れてストンと落下するような、そんな奇妙な感覚を覚えます。 ―――とまあ、長々と失礼致しました。 それにしても、長文ってホント、読む気失せますよね ^^; |
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